映画「スポットライト〜世紀のスクープ〜」を見て

 

久しぶりの社会派映画を地元のMOVIXにて拝見。

舞台は、アメリカ東海岸の有数都市ボストン。

地元紙ボストン・グローブの調査報道班"スポットライト"所属記者4人が、羨望の眼差しであり、既得権益であり、そして地域社会に深く根付いているカトリック教会に隠された暗部に対しスポットを"当てる"ことで、全米のみらず世界のキリスト教徒を震撼させた事実をベースにしている。

2016年アカデミー作品賞及び脚本賞のダブル受賞作品。

地道に足で稼ぐ取材にて、数十人(最終的には数百人までに及ぶ)神父が、子どもたちに対し性的虐待している事実を浮かび上がらせた。

spotlight-scoop.com

枢機卿大司教らといった教会関係者は、数十年前からこの事実を知っていたにも関わらず、問題のある神父を何度も転勤させる一方で隠蔽を図り、被害者らに対し地元の弁護士らを使い示談へ持ち込ませた。あくまでも一神父の過ちとして処理し、教会組織の関与を決して表沙汰にさせなかった。だが、ニューヨークから来た新編集局長の指示により、スポットライトチームはこの難題に立ち向かう。

映画に夢中になると、自分の姿を重ねて陶酔してしまうとどこかで読んだことがあるが、見終わった後にまさしくそんな経験をしました。

時として地元愛がマイナスに働くこともあると、この映画を見てよく理解できました。

Information Technologyがどれだけ発達したとしても、人が介在する事件/事故を突き詰めるのは、直接キーパーソンに会うといった地味な取材活動は欠かせない。

華やかさはないけれど、苦しい中でも諦めずに続けていけば一筋の光が灯される、そんなことを教えてくれた作品でした。

13ヶ月間のインド

◎近況

久々にブログと向き合ってみることにしました。

Facebookには取り急ぎ報告としたが、先月31日をもってインドを去った。

トランジットの香港にて休息のうち、今月2日早朝に日本へ帰国。

あれから、はや2週間が経過した。

実家へ戻った後は、市役所での手続や人生初のハローワークへ足を何度も運ぶといったことをしつつ、親しい人と少しずつご挨拶させていただいているというのが現状だ。

まだ日本に慣れきれてない。こちらが外国みたいだ。どこもかしこも人間がウヨウヨいて、オートのおっちゃんから話しかけられることもない。ただ静かに時が過ぎていく。

インド滞在はその環境をどれだけ望んだのか、わからない。混沌としていて、且つ欲望に飢えた生き物が数多くいた環境に対し、骨の髄まで疲労しきっていた。

ただ、それ以上に寂寥感が日に日に増している。あまりにも全てが整い過ぎているこの日本に、物足りなくなってきている思いがあるのもまた事実だ。

 

◎なぜ、インドから離れることにしたのか?

箇条書きにしてみれば、4点に尽きる。

1. 仕事面のハードさ(メンタル及び休日の少なさ)

→基本、土曜日(第2以外)は出勤。祝日も年10日あまりで、4日前に祝日が急遽取り消しになり、日曜日以外は出社という事態もあった(先輩曰く、よくあることらしい)。当初は、それでもやっていけるとおもっていたが、顧客(主にインド法人社長からの)問い合わせをはじめ往往にしてそれは圧迫となる。少しずつ溜め込んでしまい、しまいにはストレスを上手に回避できなかったことは大きかった。一言で言えば、メンタルで潰れてしまったのだ。

2. 他の日本人スタッフとのコミュニケーションがうまくとれなかったこと

→仕事の厳しい指摘は、上司及び顧客から数え切れないほど受けた。それをバネにして頑張ってきたが、夏で一回折れ、11月にこれ以上は耐えられないところまできてしまった。特に直属の上司からは、自分の業務範囲外でのタスクが多く且つその指示が理不尽な点があまりにも多かったので、最後は顔を合わせることができないまでになってしまった。勿論、自分の落ち度はあるだろう。決して人間関係が上手くこなしてきたわけではない。しかし、正直ここまでの経験は今までにはなかった。

3. ドバイビジネスの立ち上げ

→1にも関連するが、3月から7月までインドとドバイを兼務する形で、月1でドバイの新規開拓(要はアポ取り)が大いなる負担になったことも挙げられる。確かに、他国の日系企業を訪問することで、幅広い知見を広げることができたのは大きな収穫だ(ドバイは、お金がないと面白くないとはまさにその通りなど)。だがアポが取れていないとの叱責を受け、1日120件かけて、それを何日か繰り返したこともあった。前職がテレアポインターの仕事なので、慣れていないわけでないし、ソリの合わない上司からも評価されたが、それが仇となり、日本側のセミナー会場予約対応や上司の東京出張のアポ取り(4ヶ月)をやらされるとは全く思っていなかった。

4.  企業風土と自然環境

日本人スタッフも良くも悪くもインド人化している。自分の意見を簡潔に、はっきりと述べることで自主自立というのは良い点なのかもしれない。しかし、タイトルを持っている人間からの上意下達での指揮系統で物事が動く。日系企業に勤務した経験がないのでなんとも言えないが、日本であればオーナー系の企業風土が近いだろう。社長が白といえば白、黒といえば黒なのだ。まあ、これは外資系企業も同じようには言えるのかもしれないが。。会社からの予定が急遽入ってしまうこと(社長宅でのホームパーティー開催など)もなかなか堪えた。

会社(特に社長)からは、給料面やレポートラインの変更などの改善を約束することで、強い慰留を何度も求められた。確かに数字にも貢献できるまでになったし、気持ちとしては悪くないし、再考もした。しかし、最後まで自ら動いて顧客の下に足しげく通い、営業しに行くとはどうしても思えなかった。自然環境も決して恵まれているとはいえない。急速な都市化に伴い、環境汚染が深刻だ。私が住んでいたグルガオン

インド新聞 - インドビジネスコラム:新興都市グルガオンでは、12月から2月半ばにかけて10度を下回る冬が到来するが、それに伴い大気汚染が可視化される中で生活するなど、やはりゲンナリすることはどうしても多かった。 

あまりクドクド言い訳をいっても仕方ないので、ここで終わりにします。

 

◎ 得たもの

度胸とはったりの英語力くらいだろうか。(正統派ではないので、これから修正していきます。。)

ただし、有給をフルに使ってインド5都市(北はアムリトサル、南はインド最南端の地カンニャークマリまで)回れたのは、本当に幸せでした。(他の日本人スタッフは、5年以上勤務している人間もそこまで旅行をした人はいなかったようで。。。)

それだけ、ハードな職場に身を置いている証左ともいえます。

シク教との本拠地(Golden Temple)やワガ国境(インドとパキスタン両軍の応援合戦)があるアムリトサル、年末年始はケララ州(アーユルヴェーダ発祥の地、この間寺院での大規模火災で100人強亡くなりましたが)やインド最南端カンニャークマリで初日の出を目にし、2回目のタージマハルにアグラへ行ってみたり、最後はジャイプール近郊(といってもバスで3時間半)にあるチャンドバオリ(階段井戸)

magazine.campus-web.jp

に感動したりと(久しぶりに深夜バス搭乗)。

インドを知ることで、更に知らないことがどんどん出てきたので、新聞や雑誌、本(ヨガやインドの現代文化、ヒンドゥー教と現代社会の関係性、マハーバーラタ等の古代神話)は購入してきました。

機会があれば、それをこのブログでお伝えします。(全て英語なので、いつになるかわかりませんが(笑)

当面は、職探しと共に6月にあるTOEICと簿記の試験勉強に勤しむ予定です。

写真を整理した後に、インド滞在記は別途書きたいと思います。

 

◎ 感想

綺麗事と言われるのは承知の上ですが、これまでにない挫折と自分の想像が及ばない経験、体験を目にした1年は、後々振り返れば得るものは多くあったと思います。現時点で断定はできませんが、いずれそれが腑に落ちる時がくると信じています。インド人とビジネス経験がある方からは、否定的なコメントをもらったことも(今思えば大体はその通りでしたが)ありましたが、やらないで分かった気になるのではなく、自ら経験してきて思慮を深め、実感として落とし込む経験ができました。会社には本当に感謝しています。

最後にインドはもっと好きになりました。なぜならば、民族や宗教、言語や文化等が多様のため、十把一からげにすることは到底不可能だからです。

なのでいつになるかはわかりませんが、なんらかの形でまた渡印したいです。

まだお会いできていない方もおりますので、取り急ぎご報告まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

所感というか、なんというか。

   以前、この動画を紹介してくれた人が二人いた。グルガオンのHUDA CITYという終着駅側にあるスタバで、思わずクリックした。

17:25〜18:30からの植松さんのくだり、目頭が急に熱くなり、人目を気にせずに泣いた。何度もこの部分だけ繰り返して見てしまう。

「苦しくて、恥ずかしくて、申し訳ない、悲しいがグルングルンして大変なことになってるんです。」まさに今の自分の心の中を植松さんに覗き込まれているかのように。

 

www.youtube.com

  自分は真面目でも、優しくも、責任感があるわけでもない。ただ、やったことのない経験をしているのは間違えないであって、どうしようもない怒りや悲しみをぶつけられないのは事実だ。

 ソリの合わない上司から「ひま?」と言われ、私の営業をマネジメントする人間からは、英語でアカウントプランを作成して、レビュー最中に「キレてるの?私はあなたがどういう風になっても構わない」的なことを言われ、正直気が参っている。確かにふてくされているのは顔に出ているので、そう言われても仕方ないのはわかっている。なので、会社の人間とはあまり話ができていない。飲みに誘われることもなくなった。

 この世の中に、頭のてっぺんからつま先まで悪人という人間はいない。が、どうしようもない自分の性分なんだろう、どうしても彼らと合わせることができない。価値観なのか、気が強い性格なのか。

 だからこそ、余計気が弱くなっている。プランを出してレビューをし、3月までの目標件数と12月に再度レビューを実施することになった。本格的に詰めに来た。

 最近は、アポが取れなくなったクライアントには、飛び込み営業もやっている。嫌だなと思いながら、ノックをするとインド人しかいない。そうなると、たどたどしい英語で会話をし、次回の日本人ディレクター面談につながる。そんなことやってる。先月、今月は日曜しかまともに休んでない。休みってやっぱり大切だ。頑張れるだけ、やる。

 気分転換で、先週はQutab Minal(クトゥブ・ミナール - Wikipedia)という世界遺産に行ってきた。ローマ建築を彷彿とさせるような空間で、一時インドにいることを忘れてしまった。元々は奴隷王朝時代のイスラム建築であるが、その材料は破壊されたヒンドゥー教の寺院から建立しており、携わった人足もヒンドゥー教徒だ。

 その時の彼ら、彼女らの気持ちは、いかばかりであっただろう。自分の権威を示したがたいために、時の権力者が巨大建造物を建立するのは古今東西変わらない。そんなことを考えながら、また今日もドライバーが教えてくれたお寺にいってこよう。

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芥川賞を読んで〜火花とスクラップ・アンド・ビルド〜

文藝春秋9月号を読んだ。学生時代は毎月買って読んでいた時期もあったが、最近はご無沙汰だった。芥川賞も関心はあったが、85年の日航ジャンボ機墜落事件で奇跡的な生還を迎えた川上慶子さんの兄の手記や戦後70年を迎える今年ならではの大型企画が目白押しだったので、手にとってみた。なので、簡単に書評とやらを書いてみました。ご笑覧ください。

<火花>

煌びやかな花火に釘付けの観客が会場に向かう中、相方とともにがむしゃらに笑いを取ろうとする主人公徳永。そこで出会った先輩「神谷」。互いに夢を語り、芸人を目指す青春を描いた作品。 感受性が繊細すぎて、他者からは斜に構えていると言われる。だから、登場人物も数人しか登場してこない。中心は、徳永と神谷との生き様が描かれている。又吉直樹本人のインタビューでも語っていたが、「感情を風景で表現したい」と語っていただけに、所々表現が伝わりにくいところがあり、読了するのに難儀したといったのが率直なところだ。好きな人は好きなのかもしれない。文中で気に入った言葉以下だ。

「自らの意思で夢を終わらせることを、本気で恐れていた。全員が他人のように感じる夜が何度もあった。(中略)自分を鼓舞し無理やり興奮していた。いつか自分の本当の出番が来ると誰もが信じてきた」

「一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。」

「この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん。やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、例えば優勝したコンビ以外はやらん方がよかったんかと言うたら絶対そんなことないやん。一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。だから、一回でも舞台にたった奴は、絶対に必要やってん。

「世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです」

言うまでもないことだが、お笑い業界の生き残りは厳しい。筆者自身が見てきた世界がそこにある。次回作はどうなるか、それはそれで楽しみだ。

 

<スクラップ・アンド・ビルド>

 これは良かった。読了した時、本当にそう思った。涙腺が度々緩み、真実味がある表現に胸が痛んだ。でも、自分が主人公の立場だとしたら、多分そう感じてしまう。そんな作品だった。インタビューでは、ほとんど創作で、等身大のリアルな問題に見つめて描くことで、大きなテーマが段々わかってくるとも語っている。

 主人公健斗は28歳の男。彼女持ちだが、新卒で5年間勤務したディーラー職を辞め、行政書士の勉強をしながら只今無職の身。たまに彼女とセックスに勤しみ一方で、実家には寝たきりの祖父がいる。「早う迎えにきてほしか」が口癖で、一刻も早い死を待ち望んでいる。自身が時間を弄んでいる中でもイライラしているのに、言うことを聞かない祖父の存在は鬱陶しくてたまらない。母も邪険に扱う。甘やかない。トイレまで自身で歩かせることを強制し、助けはしない。なんでもやってあげようの姿勢は全く見られない。

 ここまでではないが、この光景を母方の実家で見たことがある。口が悪い叔母は、14年前になくなった祖父、そして、今際の祖母に対して邪険な扱いをする。いや、そうしているように見えた。そんな叔母が、私は大嫌いだった。だが、祖父が亡くなった際に、ひときわ声をあげて泣いたのは叔母だった。

 主人公は、祖父の願いを叶えるため、食事の用意や階段の上り下り、トイレや風呂の手配までなんでもやってあげる。そうすることで、判断力や体力、精神力を奪い取り、ボケが進行し、双方が願う「死」への到達点に達する。週2回のデイサービスでは、女性看護師の尻をわざと触ろうとして、モタモタする祖父を見て、主人公はより看護に徹する。「早く死ね、このクソジジイ」。

 そんな最中、風呂に入れるため、主人公は祖父を抱きかかえ浴槽に入れる。一番神経を使う場面だとデイサービスのパートを長年勤務する私の母は、何度も聞いたことがある。主人公がふと目を離したうちに、祖父は溺れてしまう。健斗は速やかに浴槽から祖父を引き上げる。

(文中)「ありがとう。健斗が助けてくれた」「死ぬとこだった」その一言に、1畳半ほどの脱衣所で平衡感覚を失い、おぼれそうになった。自分は、大きな思い違いをしていたのではないか。孫をひっぱりまわすこの人は、生にしがみついていると(終)胸が締めつけられた。そう、誰もが苦しんで死を迎えたいわけではない。

 少しネタバレをしすぎた感があるが、受賞のことばで筆者はこう語る。

「身体性」を軸に、読者の心のぬけを確保するための小説を描く、“世間から求められる言葉を言わなくてもいい自由さ”があることを提示したい。生か死かー極端な方々にふりきること以外の、自由に選べる別の道が、何人にもあるはずなのだと。

 私の叔母を見る視点は、実に限られた時間の中での一部しか見ていなかった。今際と聞いている母方の祖母は、祖父、祖母と言える唯一の肉親だ。いつでも覚悟しておきなさい。先日、母からSkypeで聞かされた言葉だった。安易なヒューマニズムを声高に叫ぶのは簡単だ。だが、高齢者の日々の生活を支える人間からすると、実に説得力がない。インドへの出国前に、祖母の姿を見にデイホームに行った。「介護の男の人が、ベッドをけるの。怖いの。」と聞かされた。これは問題なんじゃないのか、母に尋ねたことがある。「そういう時もあるのよね。痛めつけられている訳ではない(そういった場所もある)、だから大丈夫。大変なのよ、介護は。終わりがないから、最初は親切心や正義感がある人こそ何でもしてあげようとするけど、本当にそれが当事者にとっていいのかはわからないわ。特に男の人はこの仕事は難しい。ある意味、仕事で割り切った方がいいのよ。」

 母が勤める介護施設も入れ替えが激しいと聞く。給料が上がらない割に、激務。そして終わりがない。母も間もなく仕事を辞める。65歳だが、自分より若い人間がデイサービスに来るのだという。高齢化社会をとっくに迎えている日本は、人生の終着点を決める自由を真剣に考える必要がある。おそらく我々の代は、安心して老後を迎えるようなフィナーレは用意されていない。死ぬまで仕事をすることになるはずだ。だったら生き甲斐を持てるような仕事でありたい。その最中、ポックリと人生の幕が終われば、その人は幸せなのではないか。自分はそうでありたい。

インドに来て間もなく半年(3日間の夏休みと納得できんこと)

日本にはお盆というものがある。

考えてみれば、社会人になってもこの時期だけは、休みが取れた。

外資系IT営業だった私、比較的有給は取りやすかったと記憶している。

だが、今年は違う。全く休みが取れん。

そんな考えが頭を掠めた先月下旬から今月上旬。

ある意味限界がきてしまった。月並みな言葉で言えば、挫折した。

今までに経験したことがない倦怠感、仕事に手がつかない。戦えない。

事務所の周りを1周しても、やる気が全く起きない。2周、3周と足を進めるのみ。

日本人のディレクターに面談を申し込んだ。「もう厳しいかもしれません」。

相談した結果、3日間だけ休みをいただいた。そう、先週火曜日深夜から木曜日

深夜にかけて、日本に一時帰国していたのだ。理由は精神科、心療内科の受診だ。

食欲はある。ビリヤニを3人前近く食べることもある。うつ病と認めたくなかった。普通、うつ病の症状は、食欲が著しく低下するもの。

しかし、Webを見れば症状が幾つか見に覚えがある。

そんな中、ANAの深夜便で成田へとんぼ返り。成田に到着する時、目に飛び込む光景がキラキラ見えた。海外は何度か足を運んだが、初めてそう見えた。

弾丸ツアーで3件回った。

詳細は省略するが、2件は適用障害、1件は軽度のうつ病と診断(脳波検査)が出た。

その後、鍼師の友達と半年振りに新橋で飲み、よう話した。牡蠣がうまかった。

「脳波なんて、日によって異なるからそんなの気にせんでいい」。頼もしかった。医師からは、真逆のことを告げられていたので、少し安心した。新橋にあるタワー47階に駆け上り、東京を一望できる夜景が眼下に広がる。別世界。

GDP世界第2位というのは今や昔の合言葉だが、東京のど真ん中は底力がある。

6ヶ月しか離れていないが、近所の越谷レイクタウン周辺の住宅が増えていたり、少しは変貌しつつある。梅の花ができるのはありがたい。

という感じで、ほんの少しだがリラックスできた。

印象的だったのは、最初の精神科で言われた言葉。

「あと4ヶ月半で日本に帰れるなら、そこまで頑張ってみよう。コタツに入って紅白でも見て、その時に続けるかゆっくり考えればいい。むしろ、6ヶ月近くインドという過酷な環境で頑張ってこれたことを褒めていい。嫌なら、別の会社に行けばいい。それくらいの心持ちが必要」

精神科らしからぬ言葉だが、学生時代(登山部)で、インドとパキスタンの山を駆け巡っていたらしい。あと2件はいかにも医師という言葉であっただけに、むしろ心地よかった。

やたらとうつ病と診断をさせる医師や、3〜4行の診断書発行=休職依頼措置を促すペーパーでしかないことを一連の休暇で学んだ。自分がそのような診断を受けるとは出国時には夢にも思わなかったし、そういう診断もあるんだなという一つの事実として受け止めて、よりゆっくり生きていく。そう思い、帰国した。

一時帰国の件は、ディレクター以外には伝えていない。薄々は気づいているとは思うが、伝えていない。上司には、2点伝えた。

1. リフレッシュできた。もう少し頑張る。

2.但し、また自分自身でコントロールできなくなった時は、その時は相談

診断内容は包み隠さず伝え、会社としてリスクがあればクビにしても、どのようにしてもらっても構わない。そのように伝えた。

ポジション変更はない。ドバイ担当は一時的であるが外してもらったし、会社には

既に一定の配慮をしてもらい、むしろ感謝している。

さあ、ゆっくり週末を休んで今週に挑もうと思った矢先、事件が起きた。

明日開催の東京セミナーの資料がようやくインド人スタッフが上がってきたのだ!!

これで週末が潰れた。数少ない土曜半日が潰れ、日曜、月曜日は朝から時計の針が24時を指すまでひたすら日本語訳、レビュー、マージ作業がひたすら続く。。

今日も参加者名簿にモレがあるので(なぜ俺に今更振り分けられるのか。。)確認というアナログな仕事をやっていたりしていた。正直ムカついてた。

先週休んでよかった。。本当にそう思う。じゃなかったら倒れていた。

うちの会社は、凄い人たちによって支えられているのだ。

愚痴を言っても、インド人の会社だから仕方がない。彼らのペースで物事は動く。

突然アポを取れという無理難題を社長から2日前に言われたこともある。

計画的でなく、咄嗟の対応が必要なのだ。恐らく、そう考えるのが苦手なのだ。

そうした状態に慣れている日本人スタッフと新参者の自分の間で、乖離がある。

正直、不満を顔に隠せない自分がいるので、多分浮いている。そう、隠さずに言えば、日本人スタッフともあまりうまくやれていない。

好き嫌いではなく、そもそも論、反りが合わない。コンサルだからなのか。理屈っぽいし、我が強すぎて、どう対応していいのか困る。人には、多様な生き方と考え方があってもいいとずーっと思ってる。だがそれを否定する。自分の人生に自信があるからだろう。それは勝手なのだが、押し付けるのは感情のデッドラインを大きく侵している。

確かに、知識という意味で学ぶことが多いのは事実なのだが。。。

最初は無理やり合わせようとしていたが、ここまでくるとそれは難しい。

ある意味、自然体で臨もう。あらゆることに対して。

 

また愚痴ってしまって申し訳ないのですが、鬱憤を晴らすには文字に起こす作業が

一番効くので、また書いちゃいました。

マイナスも学ぶことが多いとまだ思えているので、無理をせず、自分なりにやってみようという心境です。

間も無くインドに来て半年。29年生きてきて、今までにない経験や人生を考えさせる実りある半年間であったことは間違いない。

なので、もうちょい頑張ってみます。

まだ楽しめてないけど、いつかそう思えると信じて。

追伸:来週、ダージリンでも行ってこようかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕切り直し

先日のブログを読んでいただいた方から、暖かいお言葉をいただきました。

この場を借りて、御礼申し上げます。

先日の話を受けて、ドバイ担当は一旦外れることになりました。

業務量の負担は軽減するようですが、直属上司との関係は自分にも分かりません。

ともかく、明日からインドにフォーカスして仕切り直します。

高校時代の親友も、再来月から、

異国の地「タイ」にて新たな一歩を歩むとのこと。

なんだか嬉しいかな、国や業種は違えど、自分も励まされます。

U2 「Joshua Tree」を聞きながら、また明日から少しずつ「頑張って」いきます。

 

 

 

 

コンサルって人から聞いたことを横流しして、いかにも私は知ってますという仕事なんだ。

 多分これは世界共通なんだと思う。Aという顧客の下に足を運び「実は某大手二輪メーカーが⭕️⭕️地域に工場計画中」という話を聞けば、Bという製造業に足を運んだ際には、「実は⭕️⭕️地域に計画してるらしいですね」といって話を膨らませる。それがテクなのよ!と先輩に言われた。確かに、この仕事は知識を売る仕事なのでそうなんだなーと思って聞いて少しずつ実践してるが、どうしても違和感はある。どうしてもこのくだりを入れたかったので、論理構成もバラバラだが、できれば最後まで読んでいただければ嬉しいです。

 喧嘩別れした元上司もこのブログを読んでいると聞いた。リンクを教えたつもりはないのだが、変わらずつらつらと書いてみたい。

 昨日から今日にかけて、MERIDIEN GurgaonというFive Starホテルに滞在をしている。自宅から車で15分くらいのところだ。ゆっくりしたかった。ダブルベッドに足が伸ばせるお風呂がある部屋なんて数ヶ月ぶりの体験。やはりいい。この後は、サンデーブッフェを楽しむ予定だ。食欲が不満、不安を超える存在だ。自分なりのご褒美を与えてあげたい。月一の週休2日の醍醐味だ。

 先日、顧客訪問の車中にて、私を起用してくれた上司(日本人女性)と話をした。まとめてみれば、下記3点だ。

1. インド企業で仕事をするという辛さ(週1勤務, コミュニケーションが取れない等)

2. 直属の上司(日本人男性)との関係性(着任早々のドバイ担当)

3. 会社が求めるスピードについていけていない自分(Pipelineや実績について)

 突き詰めれば、この環境で仕事を続ける自信がなく、頑張れない自分を率直に伝えた。髪がよく抜けたり、寝つきが悪くなったこともお伝えした。上司からは、業務量を減らすことやレポートラインを変えることも検討してくれると話してくれた。それでもダメなら、また相談しましょうと言ってくれた。

 理解ある上司だ。ひとまず自分の現状を理解してくれた。それだけで自分はもう十分。個人的には、業務量を減らす、レポートラインを変更するのも結局付け焼刃でしかないと思っている。どんな仕事であっても、各々のご苦労はある。飲みの場でいくら愚痴を言ったとして、当事者の心情はある程度理解できても、100%ではない。

 皆、プロフェッショナルな人たちばかりだ。今まで自分がやってきた仕事って何なんだろう?って思う。誰もがそうだが、自分なりに一所懸命にやってきた。営業である以上、数字をあげることに勤しんできた。やりたくもない一発芸をやって、パートナーの上司に顔を覚えてもらって関係性を築いたり、周囲の人間と比較的に上手くやってきた自負があった。言わば、日本の営業マンが求める素養なのだが、ここでは98%役に立たない。英語やIT知識、スキル(一応3年勤務)がなく、呆れられるばかり。法律、会計の知識も勉強はしているが、顧客からの質問は常に応用問題。メールで質問を返すことがビジネスに直結する仕事。なので、いい加減な回答はできない。答えを求めると「すぐに答えを求めるな」と言われてしまう。インド人とコミュニケーションを取りなさい。全くその通りの指摘。自分なりに伝えようとするが、これが上手く伝わらない。そして、日本人上司に伝えると呆れられる、軋轢が生まれる。

 1ヶ月前、「適性がないのでは」と直属の上司にそう言われた。これは堪えた。悔しかった。越えたくても越えられない壁があった。自分なりに頑張ってきた。が、度重なるミスをすることで、ここ最近は自分もそう思うようになってきた。逆に「それが何か?」と開き直らないと日々やっていけない。というか頑張れない。

 ただ、理解してくれる人が1人でもいる。気持ちは負けたくないし、楽しみたいし、自分なりに納得できるようにしたい。それは変わらずだ。だから、

          「もう少しだけ」ここで生きてみる。

 イノシシや豚や牛、停電に遭遇してもなんら驚かない。慣性ってすごい。超お金持ちの家に行ってみたり、ビジネスってこう動いているんだなあとか、インドやドバイに足を運び、様々な企業や世界を見ることで、自分が想定していたより遥かに超越した経験をしている。言葉を飾るつもりはなく、本当に思う。だから、圧倒的感謝をしたい。

 ただ、ホップ・ステップを飛び越えて、いきなりジャンプのフェーズにきてしまった。なので戸惑うことが多すぎて、整理できていない。大層立派なこと言っても、出来ることを少しずつ、少しずつやっていくしかない。

 最後に、部屋から見える光景をアップしてみた。ホテルは大層立派であっても、外に目を向ければ、そこはまだ開発途中のインドなのだ。一番成長著しい地域であったとしても。雨の中でサッカーをする子どもがいる。泥まみれだろうな。すぐ近くには、ボロボロのテントで雨をしのぐ人間も生きている。とんでもない金持ちも入れば、とてつもない多くの貧者もいる。

 今、人を使うことが当たり前のポジションにいる。だから、そうした光景も当たり前のように感じてしまうが、どうも馴染めない。その感覚は忘れないようにしたい。まあキレイごとだけど。

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